美術展のこと
2013年03月06日
デザインピクニック 12年度第2弾
冬季講座の中休みを利用して、企画展を巡るフィールドワークに東京に出かけて来ました。
行って来たのは、
21_21DESIGN SIGHTの「田中一光とデザインの前後左右」
森美術館「会田誠展:天才でごめんなさい」
エスパス・ルイ・ヴィトン「Madness is a part of Life」
「田中一光とデザインの前後左右」では、
例えば、これは構想段階で色紙を切って並べて構成してるんだよ、とか、
そういう普段の講座の中でちょっと話に出て来るコトなんかをよりリアルに体感できる展示に受講生も興味津々。
触ってはいけない本も、『開いて中観たいよね』とかいう感想が自然と生まれていました。
その内のいくつかは、実は教室の本棚にあるもの。今までただの本だと思っていたものが、
或いはなんとなくカッコいいナと思っていたものが、誰かによってデザインされている。
そのことに触れる時、デザイン行為そのものがグッとリアルになったりします。
何かと世間で噂の(笑)会田誠展も、メディアで文字で綴られる印象とは違う印象を感じたでしょうし、
エルネスト・ネトのゆらゆら揺れて羊水の中に戻ったような、
何かの内蔵に取り込まれたような、大きなものにすっぽり包まれた感覚は、
やっぱりちゃんと自分の感覚で体感しないと掴めないもの。
百聞は一見に如かず。
体験するってことは、ホントにすごく大切なコトだと思います。
そういうことを体験として知っていると、大学に入ってからも、大人になってからも行きますからね企画展に。
周りにどんなに美術館やギャラリーがあっても、行かない人は行かないですから。
あんなにも、自分の今や過去、未来と向き合えたり、
普段意識しないことに気づかされたり、
社会や世界の在り方について考えさせられたりする場所は他にはないってくらい貴重な体験ができる場所なのに。
日本では、美術館やギャラリーに行くおもだった理由は、
「美しいものに触れたい・癒されたい」
ということらしいのですが、
これによって引き起こされるのが、
単純に美しいとはいえないものに出会った時の
「ナニコレ、わけわかんない。これのどこが美しいの?!」という反応です。
で、これが「やっぱり美術はわかんない」「やってないからわからない」という答えを導き出します。
アートアレルギーの発症です。
でも、これが欧米にいくと事情が違ってきます。
美術館やギャラリーに行くそのおもだった理由は、
「刺激を受けたい・社会や自分と向き合いたい」
そういう気づきやきっかけの刺激がほしくて美術展に行くのだ、と。たとえば会社帰りに。
この違いはなんなのでしょうか
どうやらここには、アート全般への解釈のずれのようなものがあるように感じます。
そしてそれが、わたしの周りにも沢山居るアートアレルギーを生み出している温床であるように思います。
でもこれ、その本人がどうこうということではないと思うんですね、
多くの場合は、教育システムで育まれるはずのファンデーションの問題だと思うわけです。
例えば目の前の美しくはないものも、
ひとこと子供の頃にでも、こう誰かに言ってもらえたらストンと入ることだってあるわけです。
「作品は人間が作り出す、人間の考え、喜び・怒り・哀しみといった気持ち、体験、希望・願望・欲望・渇望を表したもの。
あなたという人間が100%美しく清らかでいつでもハッピーで明るく上機嫌ではないように、
ひとりの人間から抽出して取り出された要素や今一番誰かに届けたいことが、いつも整って美しいとは限らないんだよ」と。
例えば音楽なら、こう説明される前から解るはずのことが、
どうして美術だとすんなり感覚に入ってこずにこじれてしまうのか、同じ芸術領域でありながらのこの扱いの違いをとても残念に感じます。
まぁこれは、美術畑の側にも当然原因はあるわけですが・・・。
そもそも「美術はやってないからわからない」という言葉を生み出しちゃいけなかったのだろうなぁと思うわけです。
「音楽はやってないからわからない」とは誰も言わないわけですから。
好きなバンド、グループ、ジャンル、楽曲、思い出の曲。
一度生で聴いてみたいと思う曲。
そんな曲が、誰にでもあるのではないでしょうか。
そしていったいその内の何割が“音楽をやって”いる人なのでしょう?
少なくともわたしは“音楽をやって”いません。でも、スキな曲もジャンルもあります。みなさんはどうですか?
美術作品も、音楽作品がそうであるように、いつも整って美しいばかりとは限らないのですね。
でもその不気味な作品が、社会に警鐘を鳴らしていたり、
当たり前の日常を切り取った作品が、普段見落としがちな些細で大切な事を伝えていたり、
デタラメに思える作品が、ものごとを違う視点からもみつめてみることを促していたり、
暴力的な作品が、誰もに潜む感情的で衝動的な一瞬を照らしていたり、
目にするだけでひとりで笑ってしまいそうなユーモア溢れる作品が、疲れた気持ちを少しだけ楽にしてくれたり、
がらくたを集めたようなごちゃごちゃした作品が、そのままの自分でいいよと観る人を勇気づけていたりする。
アートってそういうもので、
もちろんその中には、圧倒的に美しいものもあって、
その先の人生で、何度も目を閉じて思い出したくなるような、そんな作品もある。
もしも、何かの美術展に行って、何も感じない、そういうことがあるなら、
案外それは儲け物で、
とりあえずそのジャンルの作品にしばらく多く触れてみる、ってことを繰り返してみてもいいのだと思うのです。
わたしたちの味覚が、経験によって味の善し悪しを判別できるようになっていくように、
また、成長してからそのおいしさの解る辛さや苦さがあるように、
何かを感じる感覚って、案外、体験の量によって培われていくもので、
何も感じないのは、その作品の質ではなく、自分の側の体験の量だったりすることがあると思うのです。
少なくとも、わたしにはそういうことがありました。
もちろん、やっと感じられるようになったその味が、自分には合わないってことだってあるわけですが、
大抵は、あーこのおもしろさに気づけなかったら、もったいなかったなぁ、そう思える事がほとんどです。
まぁそんなわけで、美大予備校:DESIGN PLANTの受講生たちにも、
高校生の内から本物に触れることのエキサイティングさとか、そういうものを知ってほしいなぁと思って引率しています。
12月一日だけの休みも返上して。笑
でもま、結局、
エルネスト・ネトのインスタレーションの中で一番はしゃいでたのはわたしだっていう・・・笑
デザインとアートの教室 りんごの森
http://ringo-no-mori.com/index.html
冬季講座の中休みを利用して、企画展を巡るフィールドワークに東京に出かけて来ました。
行って来たのは、
21_21DESIGN SIGHTの「田中一光とデザインの前後左右」
森美術館「会田誠展:天才でごめんなさい」
エスパス・ルイ・ヴィトン「Madness is a part of Life」
「田中一光とデザインの前後左右」では、
例えば、これは構想段階で色紙を切って並べて構成してるんだよ、とか、
そういう普段の講座の中でちょっと話に出て来るコトなんかをよりリアルに体感できる展示に受講生も興味津々。
触ってはいけない本も、『開いて中観たいよね』とかいう感想が自然と生まれていました。
その内のいくつかは、実は教室の本棚にあるもの。今までただの本だと思っていたものが、
或いはなんとなくカッコいいナと思っていたものが、誰かによってデザインされている。
そのことに触れる時、デザイン行為そのものがグッとリアルになったりします。
何かと世間で噂の(笑)会田誠展も、メディアで文字で綴られる印象とは違う印象を感じたでしょうし、
エルネスト・ネトのゆらゆら揺れて羊水の中に戻ったような、
何かの内蔵に取り込まれたような、大きなものにすっぽり包まれた感覚は、
やっぱりちゃんと自分の感覚で体感しないと掴めないもの。
百聞は一見に如かず。
体験するってことは、ホントにすごく大切なコトだと思います。
そういうことを体験として知っていると、大学に入ってからも、大人になってからも行きますからね企画展に。
周りにどんなに美術館やギャラリーがあっても、行かない人は行かないですから。
あんなにも、自分の今や過去、未来と向き合えたり、
普段意識しないことに気づかされたり、
社会や世界の在り方について考えさせられたりする場所は他にはないってくらい貴重な体験ができる場所なのに。
日本では、美術館やギャラリーに行くおもだった理由は、
「美しいものに触れたい・癒されたい」
ということらしいのですが、
これによって引き起こされるのが、
単純に美しいとはいえないものに出会った時の
「ナニコレ、わけわかんない。これのどこが美しいの?!」という反応です。
で、これが「やっぱり美術はわかんない」「やってないからわからない」という答えを導き出します。
アートアレルギーの発症です。
でも、これが欧米にいくと事情が違ってきます。
美術館やギャラリーに行くそのおもだった理由は、
「刺激を受けたい・社会や自分と向き合いたい」
そういう気づきやきっかけの刺激がほしくて美術展に行くのだ、と。たとえば会社帰りに。
この違いはなんなのでしょうか
どうやらここには、アート全般への解釈のずれのようなものがあるように感じます。
そしてそれが、わたしの周りにも沢山居るアートアレルギーを生み出している温床であるように思います。
でもこれ、その本人がどうこうということではないと思うんですね、
多くの場合は、教育システムで育まれるはずのファンデーションの問題だと思うわけです。
例えば目の前の美しくはないものも、
ひとこと子供の頃にでも、こう誰かに言ってもらえたらストンと入ることだってあるわけです。
「作品は人間が作り出す、人間の考え、喜び・怒り・哀しみといった気持ち、体験、希望・願望・欲望・渇望を表したもの。
あなたという人間が100%美しく清らかでいつでもハッピーで明るく上機嫌ではないように、
ひとりの人間から抽出して取り出された要素や今一番誰かに届けたいことが、いつも整って美しいとは限らないんだよ」と。
例えば音楽なら、こう説明される前から解るはずのことが、
どうして美術だとすんなり感覚に入ってこずにこじれてしまうのか、同じ芸術領域でありながらのこの扱いの違いをとても残念に感じます。
まぁこれは、美術畑の側にも当然原因はあるわけですが・・・。
そもそも「美術はやってないからわからない」という言葉を生み出しちゃいけなかったのだろうなぁと思うわけです。
「音楽はやってないからわからない」とは誰も言わないわけですから。
好きなバンド、グループ、ジャンル、楽曲、思い出の曲。
一度生で聴いてみたいと思う曲。
そんな曲が、誰にでもあるのではないでしょうか。
そしていったいその内の何割が“音楽をやって”いる人なのでしょう?
少なくともわたしは“音楽をやって”いません。でも、スキな曲もジャンルもあります。みなさんはどうですか?
美術作品も、音楽作品がそうであるように、いつも整って美しいばかりとは限らないのですね。
でもその不気味な作品が、社会に警鐘を鳴らしていたり、
当たり前の日常を切り取った作品が、普段見落としがちな些細で大切な事を伝えていたり、
デタラメに思える作品が、ものごとを違う視点からもみつめてみることを促していたり、
暴力的な作品が、誰もに潜む感情的で衝動的な一瞬を照らしていたり、
目にするだけでひとりで笑ってしまいそうなユーモア溢れる作品が、疲れた気持ちを少しだけ楽にしてくれたり、
がらくたを集めたようなごちゃごちゃした作品が、そのままの自分でいいよと観る人を勇気づけていたりする。
アートってそういうもので、
もちろんその中には、圧倒的に美しいものもあって、
その先の人生で、何度も目を閉じて思い出したくなるような、そんな作品もある。
もしも、何かの美術展に行って、何も感じない、そういうことがあるなら、
案外それは儲け物で、
とりあえずそのジャンルの作品にしばらく多く触れてみる、ってことを繰り返してみてもいいのだと思うのです。
わたしたちの味覚が、経験によって味の善し悪しを判別できるようになっていくように、
また、成長してからそのおいしさの解る辛さや苦さがあるように、
何かを感じる感覚って、案外、体験の量によって培われていくもので、
何も感じないのは、その作品の質ではなく、自分の側の体験の量だったりすることがあると思うのです。
少なくとも、わたしにはそういうことがありました。
もちろん、やっと感じられるようになったその味が、自分には合わないってことだってあるわけですが、
大抵は、あーこのおもしろさに気づけなかったら、もったいなかったなぁ、そう思える事がほとんどです。
まぁそんなわけで、美大予備校:DESIGN PLANTの受講生たちにも、
高校生の内から本物に触れることのエキサイティングさとか、そういうものを知ってほしいなぁと思って引率しています。
12月一日だけの休みも返上して。笑
でもま、結局、
エルネスト・ネトのインスタレーションの中で一番はしゃいでたのはわたしだっていう・・・笑
デザインとアートの教室 りんごの森
http://ringo-no-mori.com/index.html
デザインとアートの教室 りんごの森 URL
http://ringo-no-mori.com
Posted by りんごの森のミズキせんせい at 15:10│Comments(0)
│美大予備校:DESIGN PLANT